私は誰で、どこへ行こうとしてるのか_Posted at 01:43

はまち女史のBLOGを読んでいたら、
エリク・エリクソン
「私は誰か、私はどこにいくのか」という
言葉が出てきた。

答えがでないのははっきりしてるけど、
ここんとこずぅーと
この命題が私の中で巣食って
何かするにしても手につかないでいて
どこかそわそわ。
自分の存在価値をオートマティックに
過小評価する性質の私が、
どうにかして
自分が「今・ここ」にいても
よいのだ・構わないと思うには
仮に部分点程度の精度であっても
現時点の「答え」を出さなければならない
と思うに至った。




前半の問いはとりあえず保留しておいて、
「私はどこへいくのか」については
簡単に答えが出る。

私は母体からやってきて、
行きたいところへ行き
終いには力尽きて土へ戻る。
(当然過ぎるか・・・。)




後半の問い、
「私は誰か」は
アイデンティティーそのものであり、
自分のアイデンティティーは
恐らく何かのきっかけが発端となり
自分で「それ」だと自覚された時点で
初めて保証されるから
仮に先天的に備わっているものであっても
顕在化(=自覚化)するのが後天的である以上、
生きる作業そのものが
「私とは誰か」という
解の無い命題を出すことと同じだと思う。
・・・。
これでは答えとして
あまりに月並み過ぎる。
もうちょっと
暗くて深い掴み所の無い迷宮へ
踏み込んでみる。




先程「先天的」・「後天的」と前述したが、
この「天」という時間軸上の1点
つまり生を授かる時をボーダーにしている。
ということは、
アイデンティティーは
「産むこと」「産まれる」こと、
生殖と無関係とは言えないだろう??
と強引に論を進める。


乳母を考えればわかるとおり
「育ての親」は代わりがいくらでもいるが
多くの場合、
限定された1対の男女の間から
子が生まれることから
「産みの親」から見て子供が
アイデンティティーそのものと言える。
(生殖を取り巻く状況が目まぐるしく
変化している昨今、
この前提自体が大きく揺らぎ始めていることは
決して無視できない。
が、ややこしくなるのでとりあえず留保。)
つまり私は
両親のアイデンティティーを保証するために
産み落とされ、
そして生きていく中で
苦悩することを引き受ける。


つまり、
私が自分のアイデンティティーを
確立するためには、
「子供を産む」生殖活動を通して
次の世代に「苦悩を産む」のを強いることが必要だ。
そして
その苦悩は
答えのでない命題を
次と次と次世代に先送りすること内包しており、
その種は生殖の性質上
ねずみこう式にばら蒔かれる。


私は紛れも無く
蒔かれてしまった種を
受け取った一人である。
いみじくもこの問題を
はまち女史が締め括ったように
この問題は
その「元凶」を生んだ人物が不詳の
「鶏が先か卵が先か」わからない、
まさに循環小数にも似た
不毛さを含んでいることだけは
確かなようだ。