『AMEBIC』_Posted at 23:02

自分と内なるもう一人の自分との
徹底的な会話によって引き起こされる嫌悪は
『聴覚も鼓膜も脳も
(=身体と言う生理的反応を起こすもう一人の「自分」)、
別個の意思や感情を持った物体として感じられる』(P101)のなら
割り切った感情として処理できるはずだ。
しかし彼女はそうではない。

『錯乱が私を楽にしてくれる正常さ、〔…〕
錯乱がはけ口的なものになってくれる〔…〕
錯乱は私にとって必要なものであるであるかもしれないが、
それを認めなくない私がいる。
錯乱など、もう二度としたくない。
そう思っても
錯乱する必要性はあるかもしれなかった。』(p101)と、
過剰なまでに
拒絶するもう一方の自分との会話を試みる。


恋愛関係にある男と婚約を結んでいる彼女と
主人公の三角関係の中で
顕になるのは
2人の女が男を取り合う
醜い骨肉の争いではなく、
彼女の心象の中にある
不安定な自己の肉体と精神の関係性である。

従って
主人公にとって
彼ら他者は分離し独立した他者ではなく
「私」から分裂した親和性のあるAMEBICな存在だ。

例えば
拒食症の主人公が
真横で
皿に盛られた料理を食べる
婚約者への嫌悪の感情を抱くシーン。
「その彼女に対して
消化しきれない思い〔…〕
彼女の気持ちは分かった。」(P146)や
「彼女(=婚約者)のことを
分裂した自分ではないかと考えていた」(P145)
という心情。
それは
「あの頃私は毎日、
大量に食べ物を体に入れ、排泄していた。
あの頃の排便、排尿の感覚を
もう私はもう私は忘れかけている。」(P161)とある通り
おそらく
主人公がかつて過食症であり
尚且つ
主人公は
婚約者を
彼女自身の外部化された存在として見ていた
と考えられる。


この作品で
描かれているのは
他者に対する嫌悪ではない。
過去の自分への嫌悪である。