『停電の夜に』_Posted at 05:17

「連夜のように、
私の両親とピルサダさんは
のんびりした夕食を続けた。
[…]
そのうちにわたしは二階へ上げられるのだったが、
カーペットの下からでも声は聞こえてきた。
[…]
毎晩、
うとうとと眠りかけながら
声を聞いたようには思う。
地球の裏側に新しい国が誕生すると言っていたようだ。」
(P59/60 ピルサダさんが食事に来たころ)

いまここにいる家族とは別に、
「地球の裏側」に
「同胞」と呼ばれる
「同種の人間」がいるらしいこと。
(「私」にとって
「同種」とはあくまで近似に過ぎない)

そして
結局のところ
ここにも向こう側にも
民族上の強固な拠り所を持たないこと。


『ピルサダさんが食事に来たころ』の
幼く
そしてピュアな「私」の耳に焼きついた
世界の鼓動は
我々日本人には想像もつかない。



「息子の目の中には、
私が地球の裏まで
飛び出したくなったときの野心が見てとれる。
[…]
息子が落胆したときは言ってやる。
この俺は三つの大陸で生きたのだ。
お前だって越えられない壁があるものか。
[…]
私はこの新世界(=アメリカ)に
かれこれ三十年は住んでいる。
なるほど結果からいえば
私は普通のことをしたまでだ。
国を出て将来を求めたのは私ばかりではないのだし、
もちろん私が最初ではない。」
(P318/319 三度目で最後の大陸)

移民/亡命/混血などを
何らかの形で
バックボーンに持つ
マイノリティーの人々は、
「越境者」であると思う。

「越境者」は、
その果てしない旅の中で
目下に漫然と広がる世界が、
実は
地球の核の
そのまた核で沸々と湧き上がる
マグマのようなアゴラで
成り立っていることを
幼い時から感覚的に体得している。


先人の情熱と受苦の賜物、
アゴラ。
ラヒリは
上記の「私」のように
その声に耳を傾けてきたし、
これからも傾け続ける。