『空気の読み方』_Posted at 08:01

荒俣宏と並んで
気になっている知識人に
神足裕司がいる。

「禿頭で黒縁のメガネと蝶ネクタイが
トレードマーク」の彼から
辛口の意見を
穏やかな口調で語られるのを
アクセス(現在は降板)時代から注目しとりました。


百年に一度と言われる不況、
我々はかつてない危機に瀕している。
その真っ只中で
「最初から努力の方法も
教えられなかった人間は
[…]
この社会で
まともに生活することもできなくなった」
「従順でありさえすれば
人並みなしあわせを享受できた安定はもはや望めない」
(p8)という実感を持っている人は
少なくないのではないか。

(社会・経済と事件、
これらの関連性はひとまず留保しても)
「自分の能力や価値」を「正当」に評価されない
不満が
「自分を語りたいという自己愛の欲求」を生み
(p12)
例えば「誰でもよかった」型の
通り魔殺人事件などの
歪んだ暴走を生んだのではないのか。

誰かに語りたいのではない。
追い込まれた人間には
語りたい誰かなんてそもそも存在しない。
社会全体に訴えたいがゆえに
彼らは
「自己犠牲」を盾にした
「乱れ撃ち」を敢行する。
(私は断じて正しいと思わないが。)


神足は
繰り返し「取材力」の重要性を説いている。

まず自分が
「相手の心理的なガードは下」げるために
(相手の)
「言ったことを全部受け入れ」る聞き手になる(p180)
その上で
「自分[…]を客観的に
正しいもの(=受け入れられる者)
であるかのように見せかけ」て
「『自分がある組織の中で
どんなポジションにいるか』を
「他人の口から語らせる」のだ(p95/68/11)

他人が
自分にとって
受容しやすい
甘言を語りかけてくれることは
ほとんどないだろうし、
実際のところ
戯れ言に
どれほどの価値があろう。

自分の価値を
主観的に量るには限界がある。
他人の言葉に
(ときにそれは諌言であるかもしれない)
耳を傾ける「取材力」は
「自己愛」を超えた
鳥瞰的な視野で
自分を見つめなおす力だ。