『硝子戸の中』_Posted at 22:40

「(彼にとってこれらの随筆が)
最後のまとまった随筆となった」(p134)とある通り
朝日新聞に連載された
夏目漱石晩年の随筆集。

「この二三年来
私は大抵年に一度位の割で病気をする。」(p63)
漱石自身、
自分の死がすぐそこまで迫ってきているのを
悟っていたのかどうかわからないけれども、
生き死にに関する記述が多い。


「不愉快に充ちた人生を
とぼとぼと辿りつつある私は、
自分の何時か一度到着しなければ
ならない死という境地について常に考えている。
[…]
(死は)人間として達し得る
最上至高の状態だと思うこともある。」(p23)

死は常に恐怖の対象である一方で
我々を
甘美に誘い/魅了する。
死が
現在の時間の中で受ける傷
(「受苦」)から
開放させるという意味で
死は「最上至高」なのだろうか。
それは
死後の世界が未知数であるが故である
・・・ということと無関係ではあるまい。



「公平な『時』は
大事な宝物を彼女の手から奪う代わりに、
その傷口も次第に療治してくれるのである
烈しい生の歓喜を夢のように暈してしまうと
同時に、
今の歓喜に伴なう生々しい苦痛を
取り除ける手段を怠らないのである。

この不愉快に充ちた生というものを
超越することが出来なかった。」
(p25)

今生きていることと
死に近づくこと。
耐え難い苦しみを経験することと
それを受け止められるようになること。
これらは表裏一体ではなかろうか。
致命的なものでない限り
時間の進行/経過(死に近づくこと)が
生きている間に受けた傷を癒すならば。


…であるならば
生きていくことを
「自分の生きている方が不自然のような心持にもなる。
そうして運命がわざと私を愚弄するのではないかしらと
疑いたくもなる。」(p66)という
ネガティブに捉えるよりも
「所詮我々は
自分で夢の間に製造した爆裂弾を、
思い思いに抱きながら、一人残らず、
死という遠いところへ、
談笑しつつ歩いて行くのではなかろうか。」(p88)
と捉えたほうが良い気がする。

硝子戸の中 (新潮文庫)

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